いじめ問題①
行事の取り組みについて、述べてきました。
行事の果たす役割は大きく、まだまだ語り尽くせません。
私が勤めた学校では、2年生で行った〝キャンプ〟 廃止になった〝文化祭〟 修学旅行。
さらに、新入生歓迎会。3年生を送る会。
そして、卒業式。
とくに、卒業式の改革は、大きなものでした。
クラスづくりの範疇に入るものもありますし、学年づく、全校づくりの視点で見た方がよいものもあります。
項を改めて、これらの取り組みについて述べたいと考えています。
その前に、学級集団づくりの課題として、考えないわけにはいかない〝いじめ〟の問題を取り上げたいと思います。
いじめ問題にどう取り組むか(1)
〝いじめ問題〟をどうとらえるか
1.古くて新しい問題
愛知県西尾市で起こった、大河内清輝さんのいじめ自殺事件は1994年。
全国に大きな衝撃をあたえました。
悲しいことに、その後も各地からいじめ自殺が報じられ、いまだに絶えることがありません。
放っておけない問題として叫ばれながら、何故こうも長く深刻ないじめがなくならないのでしょうか。
いじめ自殺事件が続いているということは、それは氷山の一角で、自殺まで至らなかったいじめ問題は枚挙にいとまがないほど起こっていることは想像に難くないということです。
私も学級担任を務める間に、何度もいじめに直面し、その解決に苦慮してきました。
自分の経験も踏まえ、〝いじめ〟とはどういう問題なのか、考えてみたいと思います。
2.いじめは、個人的な問題ではなく、集団の中で発生する社会問題・教育問題
いじめは必ず、学級とか部活とか、学校の中の集団の中で発生します。
集団の中で力をもつ者が,弱い者や異質な者にたいして、暴力や言葉の暴力によって痛めつけたり、無理難題を強要したりする行為です。
警察的な発想では、いじめた加害者は誰で、被害者は誰かと追及することに関心が向くものでしょうが、事態はそう単純ではありません。
多くのいじめが、学級の中で起こっています。
学級の中に、強い者が弱い者・異質な者を差別するという関係ができているということです。
学級の構成員は、強い者の側にいる者、弱い者の側にいる者、見て見ぬ振りをしている者があり、いじめられるのはいやだから、多くの者が強い者の取り巻きに居ようするでしょう。
それがまた、強い者に力をあたえるでしょう。
いじめの被害が深刻になれば、警察権力の介入は致し方無いでしょうが、その側面が強調され過ぎている傾向が強いように思われます。
反面、社会集団としての問題、教育問題として側面が、見落とされたり、軽視されたりしてはいないでしょうか。
多くの場合、いじめは、深刻な事態になる前に、子どもたちの動き、教室内の空気などに、その兆候が現れるものです。
そこには、二つの問題があると考えられます。
一つは、学級集団の中に、いじめが起こるような差別的な、強者と弱者の関係ができてしまっているという、社会集団の問題です。
その学級集団がダメだというのではありません。
学級集団の発展過程として、未熟性を持っている、乗り越えるべき大きな課題を持っているということです。
いじめ問題を前向きにとらえ、その非民主性に気づき、それを克服できれば、その学級集団は大きく成長できるのです。
もう一つは、人間の発達の課題としては、いじめた側の子どもの発達課題が重要だということです。
加害者には、「人として許されない!」という怒りを示し、被害者への謝罪も必要です。
一方で、加害者の未熟性に目を向ければ、「加害者も被害者」という視点が必要です。
警察が行うことは、犯罪的な行為を取り締まるという警察的視点と行為です。
学校が行うことは、すべての子どもの人格形成のための教育です。
学校でいじめ問題が絶えないというのは、いじめ・差別を乗り越える学級集団・学年集団・全校集団をつくる取り組みが進められ、その中で加害者・被害者を含めどの子も人間らしく、主権者として育てていく教育活動が行われているか、という課題が教育現場に突きつけられている、ということではないでしょうか。
(つづく)
コメント