学校をどう変えるか(30)
学校の言葉⑪
「評価」㊦
評価:善悪・美醜・優劣などの価値を判じ定めること。特に、高く価値を定めること。(広辞苑)
評価:品物の価値や人・事物の価値を判断して決めること。また、その内容。
その価値を高く認めること。 (明鏡国語辞典)
評価:物の価値や価格を(論じて)決めること。〔教育で〕学習成果について判定すること。
価値:評価主体によって「よい」とされる性質。物事に役に立つ性質・程度。(広辞苑)
価値:物事や行動がどれくらい有用であるかという程度。(明鏡国語辞典)
価値:人間の生活において、それを好ましい(有用な)ものとして受け入れ、精神的・物質的に充足を感じさせる程度。(新明解国語辞典)
生徒一人ひとりが、学校で学んだことのうち、各教科の授業で学んだことについて、どれくらい価値あるものを獲得できたかを、「5・4・3・2・1」で表したものを「評価」と呼んでいるのではないでしょうか。

私たちは、本を読んだり、映画を観たり、博物館に行って調べたり、専門家の講演を聴いたり、さまざまな手段によって学習して、「(なるほどそういうことだったのかと)わかった」「(こういう論理になっていたのかと)納得できた」「(何故こうなるのかと)疑問が解けた」…という時に、学んだことの価値を見出すのではないでしょうか。
これは「わかった」「納得できた」「疑問が解けた」という自分自身の実感に他なりません。
それはなにより自分の実感であり、他人がわかることではありません。
他人に「あなたは、これだけ価値を手に入れた」などと判断してもらうものではありません。
一人ひとりが〝学ぶ〟という行為は、一人ひとりの内面の精神活動だからです。
繰り返しますが、〝学ぶ〟という精神活動の成果は、なによりその個人の実感に他なりません。
ですから「評価」は、学んでいる主体=個人がするものでしょう。
学校では、学んでいる生徒一人ひとり(個人)がするものでしょう。
子どもたち一人ひとりが「わかった」「疑問が解けた」という実感そのものが「評価」になるはずです。
すなわち、「評価」とは、自己評価なのです。
すべての子どもが、「わかった」と実感できることが、学校における教科学習の目標になるでしょう。
評価は、学ぶ主体である子ども自身にしかできないのではないでしょうか。
ですから、他人が「あなたが学んだ価値は、〝5〟だよ」とか、「〝3〟だよ」などと判定すること自体、おこがましいことではないでしょうか。
}そもそも間違っていると、私は考えます。

「通知票(表)」をつくること自体、何の法的根拠もありません。
「通知票(表)」を廃止した学校もあります。
「通知票(表)」は廃止することが、教育の理にかなっていると、私は考えます。
前にも述べたように、いま(いままで)学校でやっていること(やってきたこと)にたいして、本当に正しいのか?
本当に必要なのか?
と疑ってみることから、疑って議論することから、学校は変わっていくのではないでしょうか。
「評価」の問題もその一つです。

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