実践

自治をめざすクラスづくり(82)いじめ問題⑪

Yさんへのいじめ問題に取り組んで

2月7日の2時間の話し合い。今も覚えているのは、2時間、誰も帰ろうともせず、真剣に話し合っている子どもたちの姿、子どもたちの持っている力、自分たちの問題を自分たちでのりこえようとしている姿に、感動したことです。

2月13日の学級通信で、次のように書きました。以下に再現します。

2月7日の話し合い これこそいじめ問題をのりこえる力

2月7日。2年7組を変えた感動の話し合いになりました。こういう話し合いができる力こそ、いじめ問題(それだけでなく、さまざまな課題)をのりこえていく力だと確信しました。

まだまだ第一歩にすぎませんが、7組がやっと(?) ここまで到達したという感慨を深くします。

子どもたちのすばらしさはどこにあったか。2月7日の話し合いをふりかえってみたいのですが…

その前にまず、それまでの経過を説明します。

《私の基本的な考え方》

私は、いじめ問題について、次のように考えています。

いじめは、同じ人間を「自分とはちがう」ところなどを口実にして、暴力やことばやいわゆる〝はずし〟等の行為よって差別することで、明らかに人権侵害であり、絶対に許してはいけないことである。

いじめる側は加害者であり、いじめられる側は被害者である。「いじめられる方も悪い」という考え方はまちがっている。

いじめが起こる背景には、社会ぜんたいがいじめの構造になっているという根本問題がある。
受験体制・競争に追い込む教育体制がいまだに解消されるどころか、ますます厳しくなり、新たな競争がもちこまれようとしている。阪神大震災の被災者・高齢者・身体障害者・子ども・病人など弱者が大事にされていない。女性への差別がまだまだ多い。思想・信条・職業などの差別がまだまだある。「企業には憲法がない」といわれている。学校や教職員もそのいじめの構造の中にある。だから、いじめは、ない方がいいが、どの学校・どのクラスにもありうるものである。

一方で、いじめ・差別をなくすねばりづよい努力が、多くの人たちによって国際的に広がっている。その成果として、「子どもの権利条約」が成立し、日本も批准した。子どもたちもすぐれた人権感覚をもっている。

いじめの問題は、教育的には、いじめる子にとっても、いじられる子にとっても、まわりにいる子にとっても(その集団のすべての子にとって)自立の課題であり、その点では、全ての子に共通(普遍)な問題である。
だから、クラスの問題として、討議し、とりくむ以外には、真の解決の道はない。

                                 (つづく)

(「2年7組学級通信№159」1996.2.13 より)

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