教育情勢

自治をめざすクラスづくり(90)きみにとって学校とは⑦

きみにとって学校とは(7)

ひとり歩きということ ㊦ 

                 吉野源三郎「八つの小さな話」より

(前回のつづき)

みなさんは、歩きはじめの赤ちゃんを見たことがあるでしょう。
はじめは、ひとりでは歩けません。
おとなの人たちが手を引いてやったり、うしろから抱えたりして「あんよはおじょうず」などといいながら、ヨチヨチ歩くけいこをさせます。
それからしばらくすると、手を放して、赤ちゃんひとりで歩かせてみせます。
赤ちゃんは、ヨロヨロと歩いてはころびながら、だんだんひとりで歩けるようになってゆきます。
そして幼稚園に行くころになれば、もう歩くことなんか、まるで気にとまらないくらいになって、歩きながら話をしたり、歩きながらふざけたりします。

ところが、人間はこの地球の上に、猫や犬のように生きているのではありません。
おとなのお世話にならず歩きまわれるようになっても、それだけでは生きてゆけません。
人間は社会をつくり、社会の中で生きています。

からだは生長して、他人の世話にならず自由にからだを動かし、勝手に行動ができるようになったからといって、社会の中で社会人として生きてゆけるようになったとはいえません。
赤ちゃんがひとりで歩けるようになったということは、生物として「ひとり歩き」ができるようになっただけでは、人間として「ひとり歩き」ができるようになったということではありません。
人間として「ひとり歩き」ができるためには、もっともっと必要なものがあるわけです。

それは、いうまでもありませんね。
私たちは、社会に出て社会の仕事を何か引き受けられるだけの体力や知力を持たねばなりません。
おおぜいの人間といっしょに生活して、仲よくやってゆける人間、ものごとについて正確な判断の持てる人間、いろいろな事件や問題が起こったとき正しく処理してゆける人間、――――そういう人間にならなければ、だめですね。
からだが大きくなるだけでなく、精神も生長して、そこまで人間としてできあがらなければ――――いいかえると、そういう意味で「おとな」にならなければ、人は、いつまでもだれかのおせわになり、だれかにたよって生きていくほかはなく、けっして「ひとりだちの人間」「一人前の人間」「独立自尊の人間」とはなれないでしまうでしょう。
だから、おとなになるということも、けっしてやさしいことではありません。
生物としての人間は、ただ食べ物を食べてブラブラしているだけでもおとなになれますが、人間としての「おとな」になるには、やはり、それだけの努力と準備とがいるのですから――――

こう考えると、中学生であるみなさん、子どもからおとなになる途中にいるみなさんが、人間の一生のうちでどんな時期にいるのか、ということは、あらためていうまでもありませんね。
赤ちゃんのときにからだの「ひとり歩き」をけいこしたみなさんが、いまや精神的にもいちど「ひとり歩き」をおぼえなければならない時期にきているのです。

では、精神的な「ひとり歩き」にとって、いちばん大切なことはなんでしょうか。
私の考えでは、どんなことでも自分で考え、自分で判断するように努めること、そして何かをするときには、はっきりと自分で決意し、自分で行動し、その結果については、けっして人のせいにしないこと――――これがかんじんだと思います。
なぜなら、こういう精神をおこすことこそ、精神的な「ひとり歩き」の最初の一歩だからです。
もちろん、赤ちゃんがひとりで歩けるだけの力がないのに、むやみにおとなの手を払いのければ、ただ怪我をするだけでなく、ひとり歩きもおぼえられないように、みなさんも、ただ先生やおとうさんのいうことに耳をかさないというだけでは、ほんとうに「ひとり歩き」はできません。そういうかたちの言葉によく耳を傾けながら、しかも自分で考え、自分で決心し、自分のしたことからまずい結果が生まれても、それは自分のせいだと考えること――――

そういう態度こそ、ほんとうの第一歩ではないでしょうか。

――――「君はもう中学生だよ」といわれたとき、もしみなさんがその言葉から、「君はそろそろ精神的にひとり歩きする時期にきているのだよ」という意味をくみとるようになったら、それがみなさんにとって、中学卒業証書であるかもしれません。            

(おわり)

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