勉強について考える(3)
できない子はつくられる ~学歴社会と教育権~
森英樹著『主権者はきみだ』(岩波ジュニア新書)より
ある母と中学生の子の会話 ―――――
子「ねえ、どうしてこんなに勉強しなくちゃいけないの?」
母「いい高校に入るためでしょ!」
子「じゃあ、どうしていい高校に入らなきゃいけないの?」
母「いい大学に入るためでしょ!」
子「じゃあ、どうしていい大学に入らなきゃいけないの?」
母「いい会社に入るためでしょ!」
子「じゃあ、どうしていい会社に入らなきゃいけないの?」
母「いい会社に入ると,生活が楽になるからよ!」
子「そうかぁ、じゃ後で楽になるか、先に楽になるかの違いだけだから、ぼくは先に楽をしとくよ。だから、勉強しなくていいでしょ?」
母「……?」
このお母さんが「いい会社に入れば楽になる」というのは、ゆったりする、という意味ではない。高収入が得られる、という意味だろう。子どもは文字どおり「楽をする」ことをねらっている。意味のすれちがいが、なんともやるせない笑い話である。「いい会社」の社員はとても忙しく、生活が楽になる」かもしれないのは、定年後のこと。
「学歴社会」が言われて久しい。大卒かどうか、どの大学を卒業したかで、その人の価値が決まると思わされている社会のこと。大学で何を身につけたか、何を学んだかは、たいして問われない。だから「学習歴」ではなく「学校歴」のことだし、大学卒業証書を入れた「額」歴のことになりがちである。これはもう「学習」の問題ではないし、「教育」の問題でもない。「レベルが高い」から医学部を受験し、めでたく合格したが、血を見るのも恐くて、医者に向かずに退学する者も少なくない。
進学めざして激しく「競争」する。「競争」には順位がつきもの。児童・生徒を偏差値と点数でふりわける。それで序列がつく。そのトップ・グループだけが「わかる」授業が続く。「わかる」といっても「あたえられた問題が解ける」だけのこと。「わからない」子はおいてきぼり。「わかる」子はもっと「わかる」ために、「わからない」子はなんとか「わかる」ように、塾に通う。通わない子、通えない子は「未塾児」。
すべてが「成績」に束ねられるとき、「できる」子も「できない」子もそれをものさしに管理され、それぞれのベルト・コンベアをひた走る。わかってもわからなくても、言われた通りでいることに、12年間もかけて慣れる。
あるファースト・フード店では、詳細な店員対応マニュアルがあって、「いらっしゃいませ、何にいたしましょうか」「お持ち帰りですか、ここで召し上がりますか」「ありがとうございます。○○円頂戴いたします」という台詞を、笑顔の作り方、おじぎの角度、トレーの出し方とともに、完璧に規格化している。だから、どの店もまったく同じ応対。
冗談でこの若い女性店員に、「きみがほしい」とマニュアル崩しの「注文」をしたら、「お持ち帰りですか、ここで召し上がりますか」とつい言ってしまい、この店員さん、顔を真っ赤にして、あとはがたがたになった、という話がある。
こんなマニュアルにぴったりの、管理されるのに適切な人々が、学校のベルト・コンベアから吐き出される。店長にもマニュアルがあり、支社にもマニュアルがあって、本社にはマニュアルをつくっている技術系ハイ・タレントがいる。そして本社の一番奥に、経営のハイ・タレントがいる。こうしたハイ・タレントは、ほんの数パーセントもいれば十分。こうしたシステムは、程度の差はあれ、日本の会社にゆきわたっている。
日本の教育政策は、このシステムに合う「人づくり」を進めているように思えてならない。「わかる子」は数パーセントでよく、わかろうとわかるまいとだまって競争している子は「いい子」という「人づくり」。だが「教育」とは、その子の能力を引きだし高めることのはず。受験と学歴の「競争」に、本当の勝者はいない。
「教育権」とは競って「争う」のではなく、じっくりと個性的に育つ権利がある。
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