教育の目的 (3)
自己中心性をぬけ切る
三上満氏は著書で、「自己中心性をぬけ切るということ」というテーマで、自立について書いている。
その中で、2つのエピソードを紹介している。
一つは、「克ちゃんにさかあがりできた」という話。
これは、このブログで紹介したと思うが、再録しよう。
他人の喜びを自分の喜びにできるか ~自己中心性をぬけ切るということ~
うんと小さいときは誰だって自分中心に生きている。
自分のやりたいことをめいっぱいやろうとする。
他人のことなどあまり気にしない。
気に入らなければ怒りもするし、ダダもこねる。
そして、小さい時はそれでいいのだ。
そうやっているうちに子どもでも他人の存在に気づきはじめ、他人の心がすこしずつわかるようになる。
まわりの人が、そういう心を持つように教えてくれる。
そして、だんだん自分のいやなことは相手もいやなんだ、あの子はこうしてもらいたいと思ってるんじゃないか、ぼくがこんなことしたらどう思うだろう、こんなことが少しずつ考えられるようになる、自分のやっていることを他人の立場におきかえて考えることができるようになる。
他人の喜びを自分の喜びにすることができるようになる。
あがれた!
あれから三月(みつき)
克ちゃんにさかあがりができたのだ
克ちゃんがみんなの前に出た
われるような拍手
いつもおとなしくふさいでいる克ちゃん
きょうは口をまげて笑った
からっと晴れた日だった
目が細くなり 涙がこぼれた
拍手がやんだ
これでみんな体育は5だ
群馬県の、小学校四年生の詩だ。

やっと逆あがりができたひとりの克ちゃんのために、われるような拍手を送った子どもたち、何という美しい人間らしい感情だろう、克ちゃんに拍手を送った子どもたちの心の中にも、他人のことを考えようとするすばらしい心の成長がある。
こんなとき「克のやつできちゃって、おれより下がいなくなっちゃった。キチショーメ」などというのを自己中心性というのだ…
誰だって、うまくいかないと人のせいにしたくなる。
「おまえが悪いんだ。おまえのせいだ!」注意されるとむかついてふてくされたくなる。
頭にきてドアをけったり妹や弟に八つ当たりしたりしたくなる。
そういうことをくり返しながら、少しずつそんな自分が実は〝みっともない〟自分であることに気づいていく。
他人のことを考えて生きる方が、ずっと友だちからも信頼されるし、かっこいいのだ、ということがわかってくる。
「おまえが悪いんだ!」というより、「ドンマイ、ドンマイ」という方がずっとかっこいいのだ。
こうして人間は少しずつ自己中心性をぬけ出していく。
自分の中に他人がしっかり取り込まれ、他人の喜びを自分の喜びにすることができるようになる。
他人のためにどうすればいいのかを考えられるようになる。
つらいときでも、わめいたり八つ当たりしない。
つらいときほど優しくなれる。
他人のせいにするより失敗した他人をいたわってやれる。
ムカついてわめき散らしたりしない、堂々とした、一人前の人間になれる。
三上満『きみは青春をみたか』より

自分との対話
〝もうひとりの自分〟が育っていないと、親や教師など大人が〝もうひとりの自分〟の役を演じて、「いまはガマンしなさい」とか「ダメじゃないか、人を殴ったらいけない」などと、言ってあげる。
幼い時はそうだ。
〝もうひとりの自分〟が育ってくると、自分と〝もうひとりの自分〟とが対話するようになる。
自問自答できるようになる。
それでも解決できない、コタエが見つからないこともあるだろう。
〝もうひとりの自分〟が、「さらに熟慮を重ねよう」「そのための、いい本を探そう」「誰かに相談しよう」と発言することもあるだろう。
幅広く勉強し、討論し、本を読むことで、深く考えること、多様な考え方があることを学び、そんなしなやかさも育ってくる。
悩みもがくことも大事なことなのだと気づいてくる。
9教科の勉強がある意味がわかってくる。勉強は一生続くものだと気づいてくる。
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