理論

進路について考える(13)【いまこそ学校に希望を203】

働くことについて考える④

菊地良輔『おとなへの出発』(民衆社)より③

このように、労働は人間の生活を根本的にささえるものであるばかりでなく、人間そのものをつくったといえるのです。
それは、歴史的にみていえることであるばかりでなく、個々の人間の一生についてもあてはまります。
学校での勉強のなかでするさまざまば作業の多くは、実社会で働く準備のための、いわば予行演習ですが、実生活での労働の場面では、それとくらべものにならないきびしさが要求されます。
しごとの上の失敗の影響は大きく、やり直しのききにくい場合も多いのです。
反対に、よくできたときは、さまざまな好結果をもたらし、喜びも大きくなります。
そういうきびしい状況のなかでこそ、人間はその能力を本格的に鍛え、のばすことができます。
そういう意味で、労働こそは、人間の発達の条件となります。
また、現代の労働は、一人では成り立ちませんから、社会で働くということは、その場を通じて、おおぜいの人びとといろいろな結びつきを持つこととなり、そこでまた、社会そのものや、自分と社会とのかかわりについて学ぶことになります。

だから、現代においても、人は、労働するなかでこそ、最も人間らしい生活をすることができます。
おとなになって社会に出ても、することがない、働き場所がないということになるのは、一番なさけないことでしょう。

きみたちの家族で働いている方々に聞いてみても、きっと、働くことの喜びや誇りを語られるだろうと思います。

しかし一方、現在働いている人びとが、その仕事に対する思いが、喜びや誇りだけではない場合が多いことも、きみたちは気づいているでしょう。
それはなぜでしょうか。

第一に、現代の労働が、かなりきついものになっているからです。
一般に、日本の場合、労働時間が長く、休息・休暇が少なく、精神的にも肉体的にも、十分リフレッシュする余裕を持てない場合が多いのです。
これは、勤めている人にも、自分の家で仕事をしている人にもいえることでしょう。

また、労働の種類や、勤めている企業によっても違いますが、単調な作業の繰り返しを強いられ、やりがいを感じられない場合や、「単身赴任」などのように、華族がいっしょに暮せない状況に立たされる場合など、人間らしい生活が保障されないなかでの労働は、まったくつらいものになるはずです。

第二に、労働が生み出しているはずの値打ちに見合うだけの収入が得られない場合が多いことです。
いま、大部分の国民は企業に雇われるか、役所、公共機関などに勤めるか、または小規模の商業や農業に従事して働いていますが、そのどれをとっても、大部分の人たちのくらしには、ゆとりがありません。
目先の消費のようすだけを見れば、むかしより生活が向上したようですが、住居の問題や老後の心配は深刻で、その〝豊かさ〟は、ずいぶん底の浅いものです。
とくに、地味に下積みになって生活を担っている人たちほど、その労働のきびしさにくらべて、収入は、きわめて低いのがふつうです。

〈つづく〉

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