S市教育委員会で、「Wonder Project」(これまで当たり前としてきた「カタチ」を超える学校づくり)に取り組むのだそうです。
いま私が勤めているM中でも取り組むのだそうで、校長から職員全員に意見を書くように求められました。
私は昨年からM中に勤めていますが、M中の先生方が、〝当たり前〟のこととしてやっていることに、たいへん違和感を感じ、疑問をもつことが多いので、この取り組みはおおいに意味のあることだと思います。

私が書いてものは、次のとおりです。
〝wonder〟とは、「あれこれ思いめぐらす」「本当のところを知りたいと自問する」という意味だそうです(ジーニアス英和辞典)。
記入用紙には「授業、学校生活、行事、地域、日課、勤務環境」と、項目が書かれていますが、どんな学校にしていくのか、どんな教育を実現していくのか、子どもたちをどんな人間に育てていくのかという視点で考える時、全ての項目を一体的にとらえて、どんな学校づくりをめざすのかというテーマで考える必要があるだろうと思います。
私は、子ども一人ひとりが本当に主人公になり、一人ひとりの自立の力が育っていく学校にしていけたらと思います。教育基本法にもあるように、「人格の完成」が教育の目的ですから。
そのために、今のM中の、どこが優れているところで、何が欠けているのかを明らかにして、〝こんな学校にしたい!〟という夢を、おおいに語りあうことから始めるべきではないでしょうか。
教職員が、ワクワクするような夢を語り合い、時には激しく議論して、はじめて子どもたちも〝こんな学校にしたい!〟という夢を語り合うようになるのではないでしょうか。
M中の子どもたちは、たいへん素直で、教職員の指導を受け入れる素地ができていると、私には見えます。
その点で、質のいい子ども集団だと思います。
民主的な正しい教育実践が行われれば、グングン伸びていく底力を感じます。
教師集団も、みなさんが真面目で、率直で、気持ちの優しい、人間らしいあたたかさが満ちています。
問題は、いまやっていること、いままでやってきたことが、本当に子どもを育てることにつながっているのか、ということです。
その検証が必要ではないでしょうか。
正直に言って、みなさんが真面目で心の優しさは十分に伝わってくるのですが、〝こんな学校をつくっていこう!〟というワクワク感、ドキドキ感があまり感じられません。
そして、〝コレって、本当に必要なのかな?〟〝コレって、いったいどうなっているのだろう?〟という疑問点が多くあります。
私が思うのは、子どもたちがもっと生き生きとし、もっと目を輝かせ、もっと自主的な学校にできるんじゃないか!ということです。
自分たちが学校を変えていく、という前向きな気持ちをもってほしい! そういう学校にできたら、と思います。
教職員も、然りです。まず教職員が、〝こんな学校にしたいな!〟という気持ちを前面に出すことが必要だと思います。
私は、M中に決定的に欠けていると思うのは、行事をやって、学級や学年の活動で心から感動するということです。
学習では、感動する授業がどのくらいあるのでしょうか?
こういう私も、感動するような授業は一年に数回でもあるかどうかですが…。
子どもたちも先生たちも、感動して泣いた!
感動して心も体も震えた!ということを一年に何回味わえるかということです。
草川先生が強調されたように、この国の教育が、国の新自由主義路線にかなり浸食されています。
これは、教育を市場原理化に、競争と効率化で、国の統制を強め、教育の自由を奪い、民主教育を破壊し、従順な子どもを育てようとする、危険な動きです。
新自由主義教育に飲み込まれているとしたら、私たちは本当の教育を破壊することに加担しているかもしれません。
子どもの自由と自主性をのばすのではなく、気がつかないうち子どもを抑圧することに加担しているのかもしれません。
もしかしたら、教職員も新自由主義の被害者になっているのかもしれないと思ってしまいます。
私は、それなりに準備して授業をやっていますが、「これは正しかったかな?」「間違ったことを教えていないかな?」と振り返る毎日です。

M中でやってきたこと、今やっていることについて、〝本当に正しいか?〟〝これで本当に子どもが育っているか?〟と疑ってみてはどうでしょうか。
私が以前勤務していった学校でも、疑問をたくさん出し合って教職員で話し合ってきました。
解消されなかった疑問も多く残りましたが、少しずつ変えていきました。
〝テストは必要なのか?〟〝通知票は必要なのか?〟〝校則は必要なのか、だれがつくるのか?〟
〝なぜ卒業証書授与式なのか?〟等々…、これらは残った疑問です。
次は変えていった疑問点です。
子どもたちがやる行事なのに、なぜ教師が決めてしまうのか?☞ ほとんど全ての行事を、子どもたちが話し合い、修正も含め、決めるようにしました。
〝なぜ各々の教師のやり方を認めないのか?〟☞どんな係をつくるか等学級づくりのやり方は各々の教師の創意工夫を認め、交流することにしました。
M中にも疑問があります。
- なぜ適性検査などやるのか?(時代遅れも甚だしいと思います)
- なぜ無言入場・無言退場なのか?(全く意味不明です)
- なぜ学級の独自性・学年の独自性・学校の独自性が少ないのか?
- なぜ〝学びの共同体〟を学びながら、それを実践しないのか?(実践されているようには見えません)
- なぜ教材など、各教師が決められないのか?
等々。
まず疑うことから始めたいと思います。
ところで、あの男子バレー部の体罰暴言事件はどうなったのでしょうか。
全貌を明らかにし、全職員・全生徒・全保護者に知らせ、学校としての反省・教訓を導き出し、謝罪すべきは謝罪すべきではないでしょうか。
このままで、本当に子どもの人権を守りきったと言えるのか、たいへん疑問です。
一職員、一教師として、ずっとモヤモヤを抱えたままです。
何よりも子どもたちに、そして保護者に、地域に、真に開かれた学校にならなければならないと思います。
そして、地域たいして学問・文化の発信地となる、学校の役割が重要だと思います。
もっと子どもたちの目が輝き、感動の涙があふれる学校にしたいなあ!と思います。
ことしどんな感動を生み出せるか、私も挑戦したいと思います
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