実践

学校をどう変えるか(2)【いまこそ学校に希望を217】

N中校長への書簡②  

校長先生。

またお便りします。

N中学校をどう変えるか。

校長先生が、度々仰っているように、学校では子どもたち一人ひとりが主人公です。

そして、子どもたち一人ひとりが主人公になる学校をつくっていくための指導者として、職員一人ひとりが主人公です。

子どもたち一人ひとりが主人公ということは、子どもたち一人ひとりの意見・考えが尊重され、自主性が大切にされるということです。
職員一人ひとりが主人公ということは、職員一人ひとりの意見・考えが尊重され、自主性が大切にされるということです。

そこで、まず大切なことは、子どもの権利条約でも強調されていますが、子どもたち一人ひとりの〝意見表明権〟を保障することです。憲法では、21条の「表現の自由」です。

職員一人ひとりの意見・考えを尊重するということは、憲法では、学問の自由(23条)、思想・良心の自由(20条)、表現の自由(21条)がこれに該当します。思想・良心の自由と表現の自由は、セットで考えなければなりません。

前回のお手紙で申し上げたように、疑ってみましょう。

子どもたち一人ひとりの意見表明権が、本当に保障されているか?

職員一人ひとりの学問の自由、思想・良心の自由、表現の自由が本当に保障されているか?

子どもたち一人ひとりの意見表明権を保障するためには、日常生活・授業・校則・行事など学校生活のあらゆる活動について、一人ひとりが考え、それを表明する機会があたえられるということです。「N中をこんな学校にしたい!」「こんなクラスにしたい!」と夢を語り合う場が必要ではないでしょうか。「ここを変えたい!」「ここはおかしい?」などと話しあう場が必要ではないでしょうか。「本当に、自分たちで考え、話し合って、自分たちでつくる学校になっているか?」と疑問を投げかける場が必要ではないでしょうか。

私が、自治には討議(話し合い)が不可欠であると申し上げている訳です。

私は、社会科の授業でよく「感想」を書いてもらっています。最初、子どもたちは「感想」をあまりよく書けませんでした。なぜか? 「考える」ことをしない(できない)子が多いのですね。

「考える」ことでいちばん大切なことは、〝why〟、まさに「なぜか?」(疑問)をもつことではないでしょうか。

学校生活において、「なぜか?」と疑問を発することを知らない子が多いのではないかと思います。N中で、そういう場が保障されているでしょうか? 疑問をもち、それを発する場が保障されていないのではないか? なぜ、無言清掃なのか? なぜ無言入場・無言退場なのか? なぜ、こんな校則があるのか? 

そして、「こんな学校にしたい!」「こんな文化祭にしたい!」「こんなクラスにしたい!」…という議論が聞こえてきません。

学校の第一のリーダーは、教師です。教師の間で、時々「ここは変えよう!」という話は聞こえてきますが、あらゆる教育活動について疑問をもって、「こんな学校にしたい!」「こんなクラスにしたい!」「ここはおかしいんじゃないか?」…という議論が乏しいんじゃないかと思うのです。

第一のリーダーたる教師が、学校のすべてのことに関して「なぜか?」と問い、「こんな学校にしたい!」「こんなクラスにしたい!」と夢を語らない限り、子どもたちも「なぜか?」と問い、「こんな学校・学級にしたい!」という夢を語るようにはならないのではないか、と思うのですが、いかがでしょうか。

校長先生、N中で、職員の自主性、子どもの自主性がどれだけ発揮されているとお感じでしょうか。

職員は皆まじめで子どもたちは皆すなおなで素晴らしいのですが、残念ながら私は、自主性は?と疑問符が付きます。

乱筆乱文お許しください。 

                              久永 理
(2025.8)

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