経験談

学校をどう変えるか(20)【いまこそ学校に希望を237】

学校をどう変えるか(20)

学校の言葉①

無言清掃

思い込み、先入観、固定観念が強ければ、それによって真実・ホンモノを追究する力が弱まるのではないでしょうか。

そこに介在するのが、言葉です。

N県の小中学校ではどの学校でも、年十年も前から〝無言清掃〟が行われているそうです。
N県の〝無言清掃〟が「ナニコレ珍百景」というテレビ番組で取り上げられ、番組に出ていた人たちが驚いていて、見事〝登録〟されました。
私がいま勤めているM中もそうです。
私と同年代の人に聞いても、「小中学校の時、そうだった」と証言してくれました。
ある人に聞いたら「家族全員、夫婦も学校で無言清掃をしてきたし、子どもたちもいま学校で無言清掃をしているから、家の掃除をする時も家族みんな無言でやっています」と。

N県のある地区で、他県の学校に視察に行ったそうです。
その県の学校で、清掃の時間に生徒たちがワイワイ喋りながら掃除をしていたので、N県の教師たちはビックリしたそうです。

私は、逆です。
無言清掃にビックリしました。
6~7人の班で清掃場所を担当するので、「きょう、箒は○○さん、雑巾は○○さん…」というように班長が指示することから始まり、掃除しながら「ここを掃いて!」「机を運んで!」「○▽さん、ちゃんとやって!」などと声を掛け合うので、無言なんてありえませんでした。
ところがM中ではほとんど一人ずつ分担が決められているので、声を掛け合う必要がないのです。
サボる人などいないのです。

「そういうものだ」と無言清掃が当たり前になっていて、何十年も変わらない。
誰も疑義を唱えない。
教育上、無言清掃が正しいものになっているということです。
何十年も変わらないというのも驚きですし、どの学校でも無言清掃をやっているというのも驚きです。
学校によってやり方が違う、というのが自然のように、私は思うのですが。

N県では、「清掃」という言葉は、無言清掃を指し、それが正しいと思われていて、だれも疑問に思わない。

私は、学校は、学校におけるすべての活動を通して子どもたちを育てる所だと考えますので、清掃の時間も子どもたち同士が声をかけあい、助け合う関係を築く大切な場であると考えてきました。

私は、それが当たり前だと思っていました。
私は、そう考えるのですが、違う考えの教師がいてもいいはずです。
実際、私が以前勤めた学校では、学級担任によって清掃のやり方も違いました。

M中では全校で同じやり方です。
全県で?!

〝無言清掃〟が当たり前で、正しい。これって、思い込み・固定観念ではないですか?
どういう科学的、教育理論的な根拠に基づいて始まったのでしょうか?
数十年続けてきて、教育上、どんな成果があったのでしょうか? 子どもはどう育ったのでしょうか?

長年〝無言清掃〟をやってきて、それが当たり前になっている。

そこに、どんな教育的意味があって、それで子どもたちをどう育てようとしているのか?
問い直さなければならないのではないでしょうか。

私には、いまのところ、〝無言清掃〟から導き出せるものが見つかりません。
効率よくやることぐらいしか意味は見出せません。
だとしたら、それって教育?と思ってしまいます。

〝清掃〟

たかが清掃 
されど、大切な学校における教育活動

〝黙想〟

M中では、もう一つ、不思議なことがあります。

清掃が始まる5分前にチャイムが鳴って、「黙想を始めてください」という放送が入ります。

「黙想」=無言で考えにふけること。(広辞苑)

清掃の前に、何について考えにふけるのでしょうか。

清掃をしっかりやるように考えにふけるのでしょうか?「

私には、よくわかりません。何の意味があるのでしょうか。

毎日「黙想を始めてください」と放送が入る。
私自身、それが当たり前になって、毎日が過ぎていく。
おー!コワ コワ!

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