理論

自治をめざすクラスづくり(86)きみにとって学校とは③

きみにとって学校とは(3)

何のために学ぶか

林 友三郎『中学生時代』(岩波ジュニア新書)より

 きみたちは夜間中学の話を知っていますか。さまざまな不運な事情のために義務教育を修了する機会に恵まれなかった人びとのために開かれている夜間の中学校です。

 ここに学ぶ人たちは、たとえば、戦中戦後の混乱と貧困のために小学校にも行けなかった人。中学校の卒業免状はもっているが、学力がないために生活や仕事にさしつかえる人、外国から引き揚げてきて日本語を話せない人、その他、在日朝鮮人、登校拒否のため義務教育を終えなかった人などです。まず日常生活に必要な学力を身につけたい、中学校教育だけは修了したいという切実な要求をもって集まる人たちですから、勉強の意気込みがちがいます。

 ほんとうに勉強したい人が集まる、それにこたえて真剣に教える先生たち。ここにこそほんとうの教育があると、映画監督の山田洋次さんもいっています。そこに学んだ人たちは、「夜間中学は一生の宝」と口ぐちにいうそうです。

 このような人たちにくらべたら、きみたちが抱く「何のために勉強するのか」という疑問はすこぶるぜいたくな疑問かもしれないのです。

 「先生、何のために勉強するのですか」とたずねられると、わたしは「そんなこと勉強しなくてわかるものか」と答えることがしばしばありました。

 こういう答え方は不親切にみえるかもしれません。しかし、そのときそのときに応じて勉強の目的を問いなおしていくことこそ大切であって、性急に答えだけ求めて、なにか目に見えて得をすることがあったら勉強しようと考えるとしたら、それも問題です。

 勉強しなければ高校へ入れないから勉強する、という人が多くいます。もしそうだとしたら、高校へ行かない人は勉強する理由がなくなってしまいます。そうではなくて、高校へ進まなくても勉強は必要なものだということを、わかってほしいのです。

 勉強は、人生の目的と切りはなして考えられるものではありません。人は何のために、どう生きなければならないかという問題は、一人ひとりが一生を通じて考えつづけていかなければならない問題で、簡単に解答の出ることではありません。その長い、ねばりづよい探求のいとなみに耐えていくことこそ、実は勉強の過程であり、勉強そのものだといってもよいのです。

 きみたちの日常の勉強にひきよせて考えてみましょう。たとえば、数学の文章題を二時間も三時間も、ときには半日でも考えつづけて解いてみたという経験を、きみたちはどれほどもちあわせているでしょうか。国語の作文や理科、社会などのレポートを自分の文章でどれだけ書き上げてみたことがあるでしょうか。そのような勉強こそ、人生を変え、自然と社会について探求する基礎となっていくのです。

 中学校で教わる勉強は、きみたちが自分の力で自然と社会と人生について考え究めていくための基礎的な知識です。これを基礎学力といいます。それは、基礎的な体力と生活力とあわさって、人生を生き抜くための力となるものです。

 かりに、きみたちが字をまったく読むことができず、四則計算もできないとしたら、どうしますか。毎日の新聞を批判的に読める力がなかったら、これから自分たちにとって幸せなことが起ころうとしているのか、不幸なことが起ころうとしているのか判断がつかないでしょう。大学を卒業しても専門外のことはよくわからないほどに現在の社会は複雑多岐にわたっているのですから、なおさらのことです。

 民主主義の国では一人ひとりがその国の主人公(主権者)なのですから、きみたちは将来、日本のおとなとして、自分たちの幸福と責任を保障するにたりる能力を身につけるために学習する権利が与えられているのです。その権利を十分に行使しないというのでは、自分のためにも社会のためにも大きな損失だといわなければなりません。

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