教育の目的(8) 自立の力を育てる
知ること
教育の目的は、自立の力を育てることです。
自分で、何が正しいか、どっちの道が間違っていないか、考えて、決めて、生きていくのがいいと考えるからです。
自分の生き方、人生を、他人に「こうしろ!」「こう生きろ!」などと決められることほど不幸なことはないから。
あなたは、自分の人生を他人に命を預けてしまうことができますか。
他人に人生を預けてしまうということは、他人に命を預けてしまうということです。
そんなことできるわけがないでしょう。
しかし、いままでの人間の歴史の中で、そういう不幸なことが数多くあったのです。
18~19世紀には数千万の人がアフリカから奴隷としてアメリカに強制的に連れてこられ、多くの人が殺され、〝商品〟として売られました。
20世紀には、二度の世界大戦で、多くの人が兵士として戦争に駆り出され、無辜の人々が数千万も命を奪われました。
そして現在も、起こっています。
暴力や差別が、いまだに絶えません。
人を人として見ない、理不尽なことがたくさんあります。
だれだって、そんな目に遭う可能性があります。
いやきっとどこかでそんな目に遭うのではないでしょうか。
だとしたら、ひとごと他人事ではありません。
ウクライナでは、3年前にはだれも、こんな目に遭うとは思っていなかったでしょう。
ただ、いまは希望があります。
数え切れないほどの人々の犠牲の上に、〝個人の尊厳〟〝人はすべて自由で平等〟という人権と、一人の意見・考えも尊重するという民主主義のという理念が打ち立てられていることです。
他人事にしないで、世界で多くの人が、「戦争をやめろ!」「差別は許さない!」と立ち上がっています。

自分や自分につながる人に、次から次へとさまざまなことが起こるでしょう、その時どきに、何が正しいか、どっちの道へ行ったらいいか、判断が迫られます。
他人に命を預けるのではなく!
どうしたら、判断できるのでしょうか。
何が正しいか、自分で考えるしかありません。
これから何が起こっても、考えることができる〝自分〟をもっていなければならないということです。
どうしよう?どうしよう?と右往左往しないで!
その理不尽が起きたのはなぜ? どうやってその理不尽とたたかうか? たとえ絶望の淵に追い込まれても希望を見いだすには(私は、絶望こそ希望を見いだす根源だと考えていますが)? 考えるのです。
そのためには、その原因は何か、知ることです。どんな解決の道があるのか知ることです。考え。判断する材料を知ることです。知れば知るほど、考えを深めることができます。深く考えれば、納得のいくコタエが見つかります。その時の判断が間違っていても、修正ができます。
そのために、勉強しましょう。
他人に決められる生き方がいやなら、自分で勉強しましょう。
この〝自分で〟がないと勉強にはなりませんけどね。
〝自分で〟がないということは、誰かにやらされている、言い換えれば義務感でやっているということです、勉強は義務でやるものではないので、こういう人は勉強が進まないでしょう。
勉強して、知ると、「わかったた」という実感が生まれますので、知ることが喜びになります。

難問は、第一にこのことを知らない人が多いということです。
その責任は多分に教師と学校にあると思います。
第二に、本当のことがわかるには、何を知ればいいのかを知らないということです。教科書でさえ、事実・真実ではないのではないかという記述が散見されるのですから。
たくさん本を読みましょう。100年、200年と読み継がれている本は、真実ではないかと一つの目安になります。
本当かな?なぜ?と疑問の目をもちましょう。
無知の知
私は、知らないことを知らないことが大きな問題ではないかと考えています。
私自身、「知らなかった!」ということがしょっちゅうです。
人類が「ゼロ」を発見するまでに、ずいぶん時間がかかりましたから。
知らないということを知ること、つまり、無知の知が重要だと考えています。
勉強を続け、なぜ?と問い続け、自己内対話を続け、他の人たちと議論し、批判精神を養い、考えを深めることによって道は開かれると、今のところ考えています。
くり返しになりますが、本を読みましょう! 古典を読みましょう!
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