学校をどう変えるか(29)
学校の言葉⑩
「評価」㊤
「評価」は、学校教育について考える時に、とくに重要な言葉の一つでしょう。
〝学校教育で子どもたちに何を育てるか?〟〝教育の目的は何か?〟が、「入り口」とすれば、「評価」は「出口」にあたります。
教育活動の〝何を、どう評価するのか? 誰が?〟という問題は、教育活動の成否が問われる重大問題です。
「入口」については、ある程度結論が出ているのではないでしょうか。
教育基本法(新旧どちらの教育基本法にも)に「教育の目的は、人格の完成」であると、明記されています。
これについては、ほとんど異論はないでしょう。
「人格の完成」とは、雑駁すぎる向きもありますが、私は、「自立の力」と説明してきました(「いまこそ学校に希望を」164~168、170~176 参照)。
また近年、こどもが「自ら学び、自ら判断する力を」という言葉が頻りに言われるようになりました。
(この言葉が、どれだけ実体を伴なっているかは、甚だ疑問ですが…
しかし、「出口」については議論百出、いまだ定まっていないように思えます。
そこに、文部科学省が、「観点別評価」なるものを持ち込み、強制し、教育現場に混乱をもたらしてきました。
困ったことに、この強制力によって「観点別評価」が当たり前のように行われ、教育がさらに歪められているように、私には見えます。

2000年(平成12年)「学習指導要領」改訂に伴い「観点別学習状況評価と評定」という評価法が導入されました。
中学校では、「観点別評価」として「関心・意欲・態度」「思考・判断・表現」「技能」「知識・理解」の4つの観点で「A・B・C」の3段階で評価した上に、それを総合する「評定」を「5・4・3・2・1」の5段階で行うことになりました。
学校現場には大きな混乱が生まれました。「知識・理解」はテストで判断することができても、「関心・意欲・態度」や「思考・判断・表現」をどう判断するのか? そもそも生徒一人ひとりの関心や意欲・態度を「A・B・C」で表すことなどできるのか?という疑問が広がりました。
意欲はあるが態度がわるい場合はどうするのか? 関心や意欲が低いということは教師が生徒に関心や意欲をもたせることができなかったということで、教師自身が評価されているようだ? 200人ほどいる生徒一人ひとりの思考力や判断力がどれだけあるか?しかもそれをABCで判定することなど不可能ではないか?
苦肉の策として、これまでもノートを集め評価点をつけ、テストの点にプラスしていましたが(これは、テスト点が低い生徒にたいする救済策でもありました)、ノートをよくまとめている生徒は感心・意欲があると認めることにしました。
2017年(平成29年)3月に告示された改訂「学習指導要領に対応した学習評価」という文科省の
通知で、これまでの「4観点」から「3観点」に改訂されました。
新しい3観点は「知識・技能」「思考力・判断力・表現力等」「主体的に学習に取り組む態度」。
やはり、「思考力・判断力・表現力」「主体的に学習に取り組む態度」の評価が問題になります。
「評価」は、何のため
通知票(表)に示される「成績」は子どもにとって学校における最大の関心事の一つでしょう。
教師は人情としてできるだけ「C」はつけたくありません、「1」はつけたくありません。
子どもが、通知票の「成績」を見て、自信をなくすようにはしたくないものです。
「がんばろう!」という励みになればいいと思います。
私が以前勤めていた学校では、「成績」をどうつけるかは教師一人ひとりに任され、自由裁量でできました(学校の自由裁量権)。
意欲はあるのに、テストの点が取れない子もいます。
前述したようにノート点を加味して「関心・意欲・態度」をAにして、「1」がつかないようにしました。
5段階の「評定」の基準は、学校ごとに決めることになっているようです。
例えば、30点未満は「1」、80点以上は「5」というように。
そして「A・B・C」と「5・4・3・2・1」とはリンクさせなければなりません。
ある学校では、30点未満は「1」、「1」だと「A」があってはいけないのです。
逆に「5」だと「B」「C」があってはいけないのです。

文科省の指導だと、「観点別評価」の「A~C」をつけて、そこから5段階の「評定」を導き出すことになっています。
子どもの最大の関心事は、5段階の「評定」です。
子どもたちの「成績」を公平に、客観的に数値化できるのは、テストの点です。
ノートなどの救済措置を加味して、5段階の「評定」をつけ、「リンクづけ」に合うように「A~C」をつけるしかないのではないかと考えています。
「順序が違う」と言われるかもしれませんが、そのくらいの自由裁量も許されないのでしょうか。
子どもたちにたいして直接責任を負っているのは、学校現場の教師です。
子どもたちに「自ら考え判断すること」を望む教師が、自ら考え判断しなくて、どうするのでしょうか。
子どものためになるよう最善を尽くすのが教師としての務めではないでしょうか。
どうすることが子どものためになるかは、さまざまな意見があるでしょう。
そこで大いに議論して学び合うことが大切ではないでしょうか。

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